日本初の介護浴槽「天野式特殊浴槽」誕生
きっかけは父の自宅介護
画像:きっかけは父の自宅介護
介護の現場に“しあわせ”と“やさしさ”を。創業者・天野伸一がすべてを投げ打ってまで取り組んだ「日本初」への挑戦は、長年にわたる自身の経験によって突き動かされたものでした。
きっかけは、寝たきり生活が続いていた父・守氏の自宅介護。1952年(昭和27年)、天竜市二俣町(現:浜松市天竜区二俣町)でバイクの販売修理業をはじめた伸一は、昼夜を通して事業と父の介護に明け暮れていました。何とか一家の生計を立てていく中で、特に苦労を伴ったのが入浴介護。寝たきりの父を浴槽まで移し、抱きかかえながら身体を洗う作業は毎回多くの時間と労力を奪っていきました。
友人、山村三郎からの相談
寝たきりの人たちが安心して浸かれる浴槽はできないだろうか?伸一の脳裏にささやかなビジョンが浮かび上がった時、友人であり、社会福祉法人「天竜厚生会」の事務局長(当時)を務めていた山村三郎氏から相談を受けます。
それは「福祉施設に入所している重度障がい者の入浴作業が大変なんだ。抱きかかえながら浴槽に入れるのはとても困難で、介護者の腰の負担も尋常じゃない。何か良い方法はないものだろうか?」。伸一は運命的なものを感じました。自分も同じ苦労を身をもって経験してきた。天竜厚生会をはじめ、日本全国にも同じように日々大変な苦労をしている人たちがいるはずだ、と。
ドラム缶からはじまった介護浴槽開発
画像:ドラム缶からはじまった介護浴槽開発
1964年(昭和39年)、伸一は一念発起して介護浴槽の開発に取り組みます。 当時の入浴介護浴槽はすべて外国製。導入に莫大な資金が必要なのはもちろん、日本式の入浴法ではなく、浴槽は浅く、シャワーのみで洗い流すというものでした。
伸一が考えたのは「外で身体を洗ってから、浴槽にゆっくり浸かる」という日本人の入浴に寄り添ったスタイル。「寝たきりの方でもお風呂を楽しめるように」という想いは、父の介護経験とも重なり、伸一の心の支えとなっていきました。
最初の試作品はなんとドラム缶。ドラム缶を半分に切断して浴槽に見立て、天竜厚生会のスタッフと入浴体験を行い、意見交換をしながら試行錯誤を重ねていきます。成功と失敗を繰り返しながら、日本人に合った介護浴槽を模索する日々。大枠が固まってくると、次に機能面での配慮に着手していきます。それは「入浴者の移動を容易にし、安全を保持しながら省力で入浴できる」という部分でした。入浴者の移動と上げ下げをスムーズに行う専用浴槽と運搬車の開発には、バイク修理業で培ってきた伸一の技術と経験が存分に生かされたといえるでしょう。その後、業務用厨房機器の製造会社に依頼した大型ステンレス浴槽が完成し、スタートからわずか1年後の1965年(昭和40年)、日本初の介護浴槽「天野式特殊浴槽」が誕生、同時に特許も取得しました。
向けられた賞賛の声
画像:向けられた賞賛の声
1966年(昭和41年)、浜松市富塚町に「天野商事株式会社」を設立。天野式特殊浴槽(製品名:手動式ステンレス浴槽[AT-39])の販売を開始します。
「こんな浴槽、売れるわけがない」「天ぷらみたいに浸けて上げるなんて失礼だ」など、疑問や批判の声があがる一方で、高齢化社会を見据えた時代の後押しもありました。1963年(昭和38年)に制定された老人福祉法により、全国に特別養護老人ホームが拡充していったのです。伸一は全国から問い合わせを受け、軽トラックに浴槽を積んでは各地を飛び回りました。
納品に出向き、取り扱い説明をする中、耳に入ってきたもの。それは施設関係者からの賞賛の声でした。「これならもっと楽に入浴介護ができる」「操作がシンプルで使いやすい」。
伸一は確信しました。「自分や天竜厚生会が直面していた問題は、全国の人も一緒だったんだ。天野式特殊浴槽は自分たちが現場を知ってたからこそ、介護する人、介護される人のことを考えた浴槽として受け入れられたんだ」。
受け継がれる「原点」
画像:受け継がれる「原点」
日本初の介護浴槽が誕生するまでの軌跡。それは、時代こそ違えど、現在のアマノが歩んでいる道そのものです。介護や医療の現場から浮かび上がってきた問題を真正面から受け止め、継承されるあくなきベンチャー精神と時代を読み取るセンスによって、形にしていく。

創業者・天野伸一が見てきた世界と思想は、今なおアマノ社員と製品に脈々と受け継がれる「アマノの原点」です。